去年の6月、子供と決めていた約束を破った。
忘れていたわけでも、特別な理由があったわけでもない。ただ、急いでいたから、わかっていたけど、なんとなく約束を守らずに出かけてしまったのだ。
そしてその6時間後、私は生まれて初めて救急車に乗っていた。
涙のバイバイ
私たち家族は、アメリカオレゴン州ポートランドで暮らしている。自然が多く、子供たちが小さい頃は、近くの森に隣接する森の幼稚園に通っていた。下の子がそこに通い始めた頃のこと、朝学校に送りに行き、友達や先生と合流すると嬉しそうなのに、実際に私が帰ろうとすると、いつも私にピタリと張り付いて大泣きした。小さい体からどうやったらあんなに大きな声が出るのか不思議になるほどの大音声で、離れたくない、いかないでと毎日泣き叫んだ。
それが、彼女の中である意味儀式的な涙であっても、私がいなくなって30秒後には友達たちと仲良く遊び始めるのを知っていても、お迎えの時には「帰りたくなーい」という別の儀式が待っていても、涙を流す我が子を見るのは正直いつも辛かった。何度やっても、それが毎日のことであっても、あれだけ素直に感情を表に出せることが羨ましいとは思いはしたものの、子供の涙に「慣れる」ということはなかった。
そうとはいえ、子供を送ったすぐ後にミーティングに行かなければいけない時もあるし、朝のお散歩から始まる学校の仲間をいつまでも待たせるわけにもいかない。だから、時には大泣きする我が子を先生に抱っこしてもらい、そのままバイバイすることもあった。
そんな彼女に、何度も何度も伝えたことがある。
1、ママはあなたのことが大好きだということ。
2、ここにいるみんなもあなたのことが大好きだということ。
3、悲しいくても、寂しくても大丈夫。自分の気持ちに素直でいいということ。
4、ママも会えなくて寂しくなるということ。
5、ママは行かなければいけないということ。
6、絶対に時間がきたらお迎えにくるということ。
そして同時に、二人である約束もした。
私がどこかに行く時、それが学校に子供を送った時でも、私が家から何処かに行く時でも、きちんとお別れのハグをして、大好きだよを伝えてから出発する。気がつかないうちにこっそり出て行ったり、急にいなくなったりしないと。
だから、先生によっては私から引き離されて彼女がガン泣きしてる時に、「今のうちにこっそりどうぞ」とか、他の子供と遊びに夢中になってる時にそーっといなくなったらどうですかと言ってくれたりもしたけれど、私たちは二人で決めた約束があるので、どんなに大泣きしていても、先生に抱えられる前にしっかりと会話をし、ハグもキスもして「今から行くね。」と伝えてから離れるようにしてきた。
そしてある晩、それはもう突然、彼女は「明日から泣かないことにした」といきなり決意表明をし、実際に次の日からお別れの際に泣かなくなった。彼女の中で何かが納得いったようで、妙に清々しい顔をしていた。毎日のようにおねしょをしていたのに、ある日「今日からオムツ履かない」宣言をし、その日の夜からおねしょがピタッと止まった時のように。
でも、彼女が学校でのお別れの際に泣かなくなっても、夜におねしょをしなくなっても、プレスクールを卒業して小学校に入学し、気がついたらもう7歳になった今でも、二人であの時にした約束をいつもずっと守り続けてきた。
お別れの際は、きちんとハグをしてバイバイをしてからいなくなる。
1年前のあの日を除いては。
*
それは穏やかな朝だった
2020年のお正月、年末年始で日本に帰国したついでにと受けた人間ドックで白血病が発覚し、アメリカに急いで戻ってきて抗がん剤治療を開始した。初めの1ヶ月ちょっとは病院に入院し、寛解導入治療を行い、その後約1ヶ月をワンクールとした地固め治療は、短期入院と通院によって行った。
大量抗がん剤は、正常、異常に関係なく、血液細胞を減少させるので、投与から1週間もすると、血液細胞の値が底をつく。白血病の治療中は、二日置きに通院し、血液検査を行い、必要に応じて輸血により不足している血液細胞を補った。
コロナ禍に関わらず、献血に行ってくれた方々には心から感謝すると同時に、白血球も血小板もほとんどゼロの状態で、私の血液にはなにが残っているのかいつも不思議だった。そして、慣れてくると体調の変化で、自分の血液細胞の数値がなんとなくわかってくるもので、この息切れ具合は赤血球がだいぶ減少してるなとか、血豆が身体中に出てきたから、血小板が10を切ったなとかが分かってくる。病院に着いた時はベットの上り下りで息が切れていたのに、輸血された途端に登山にでも行ける気分になることも珍しくなく、まるで吸血鬼のようだと思ったりもした。
しかし、6月28日、私の体調は落ち着いていた。呼吸も安定していたし、普通に動けたし、うまくいけば血液検査である程度の数値が出て、輸血せずに帰らせてもらえるだろうと思っていた。だから、友人の「病院に行く前に自宅で採れた梅を届けてくれる」という素敵な提案を嬉しく受け入れた。
すごく穏やかな朝だった。
久しぶりの友人との再会は楽しく、思ったより話し込んでしまった。甘い梅の匂いに幸せを感じていたのも束の間、気がついたら病院に行く時間で、バタバタと庭先から車に乗り込み、病院に向かうことになった。玄関先に見えた娘に「たいへん!遅刻しちゃう。」と叫んだ。ハグをせがむ彼女に、「ママ今日は調子がいいから、きっと輸血なしで帰ってこれると思う。輸血しても3時間後には戻ってくるよ。ハグは後でしよう!」私はそう言って車に乗り込んだ。
たった10歩先にいる娘に、たった20秒のハグをしないで。私は急いで病院に向かった。
約束を破っていることもしっかりと自覚していたのに。
初体験
その後、血液検査の結果、私の体の中にほとんど血小板がないことが判明した。ついでに言うなら、ヘモグロビンの値もだいぶ低く、結局は両方の輸血が必要と言われることとなる。そして、血小板の輸血中、私の体調が急変した。
クーラーの効きすぎで部屋が寒いと思って毛布にくるまっていたのだが、どうやらそれは空調のせいでもなんでもなく、たった30分の間に私の熱が36度から40度に上がり、体の震えが止まらなくなった。初めは、輸血した血液に対するアレルギー反応かとも思ったが、様子がおかしく、免疫細胞がほぼない状態で高熱を出しているため、最終的には大きな病院に搬送されることとなった。
人生で経験する予定ではなかった初めての救急車。
なんだか良くわからないけど、ちょいと不味いことになったなと言う実感だけがあった。
病院での様々な検査の結果、私はどうやら血液の感染症にかかっていたらしい。ひどい寒気でガタガタと震え、その後いきなり熱が急上昇し、その後汗だくになるほどの暑さがやってきて、汗のひきとともに、また寒気で震えだす、というサイクルを何度も何度も繰り返した。自己免疫がないため、強い薬も処方された。熱で朦朧としているのか、薬でハイなのか良くわからなかった。関節の痛みがひどく、さらに薬が増えた。
私の「3時間で戻るから」が2日入院、3日入院と延びて行った。熱が下がった後、肺の中に水も発見され、さらに入院が延びた。毎日医師から退院は体調次第だからいつとは言えないと伝えられた。
*
何やってるんだか
ただでさえ、ある日突然(しかも家族旅行中に)白血病の告知を受けるというだけで映画みたいなのに、今度は救急車に乗って緊急入院だなんて。自分の置かれている状況がますます映画みたいになってきたな、と思っていた。そして浮かんだ、どこかで見たシーンがこちら。
「本当に、些細な喧嘩だったんです。意地を張って。それが最後の会話になるとは思わずに・・・」
「たまたまその日は忙しくて、しっかり話を聞いてあげられなかったら。まさかそれっきりになるとは・・・」
大量の薬でいちいち大袈裟な思考回路になっていたという事実はあながち否めない。でも、家を出た時から、子供との約束を破ったことがずっと気になっていた。別れ際の少しがっかりした子供の顔が忘れられなかった。だから、この「ますます映画のような展開」が怖かった。
退院の日にちが見えない中で、「あの朝は、バタバタしていて、すぐに帰ってくるからと子供との約束を守らずに家を出たんです。あれが最後になるとは思わずに。」ナレーションのような声が私の頭で響いていた。
癌を宣告されて、治るということになんの疑いもなかった。あくまでもプロセスだから、私は大丈夫と何度も言い聞かせた。だから、治療中、みんなが思うよりも不安というものはあまりなかったように思う。でも、この時ばかりは、かなりビビっていた。弱気だった。
そして同時に、情けなかった。
癌になって、自分にとって何が大切なのか再確認した。妙なこだわりも、無意識の「母はこうでなければいけない」「妻だからこれしなきゃ」も、実は自分が自分に背負わせていた重荷だと気がついた。部屋が散らかっていても、毎日同じものが食卓に並ぼうが、子供が何日もお風呂に入らなくても、「私の幸せ」という部分に影響を及ぼすのはそんなところじゃないと気がついた。
何よりも、子供達と一緒に笑っていたいと思った。
それなのに、治療開始からたった半年で、私は子供に自分の20秒をあげてあげなかった。何をしているんだか・・
たいせつなこと
お陰様で、私は元気になった。先の見えなかった緊急入院も、一週間ちょっとでいきなり退院の許可が出た。でも、あのとき感じた心のモヤモヤは、いまだに私の中に残っている。
昨日子供の寝かしつけの時に「ママがバイバイの約束を守らなかった日のことを記事にしてみようと思ってるんだ」と伝えたら、「ママが初めて救急車に乗った日のこと?」と返ってきた。彼女の中にもあの日は残っている。
彼女のいう通り、私は子供との約束を破って救急車に乗った。でも、改めて何かを学んだと思う。癌を宣告され、学んだ気になっていたけど、「当たり前」に負けてしまってまた忘れてしまったこと。すごくありきたりなことだけど、すごく大切なこと。
私たちの人生は、私たちの瞬間瞬間の選択の積み重ねからなっていて、「たかが一回」が私たちの最後になるかもしれない。「たったこれだけ」が結果として大きな変化をもたらすかもしれない。もちろんそれはいい意味でも起きることもあるのだけれど。
私はある意味でラッキーだったのだと思う。あの日で終わらずに、あの日が「再び訪れた学びの機会」になったから。そしてまた学ぶことができたから。
その時その時を大切に。自分が本当に大切な人を、ことを、モノを大切に。
Dr. Dyerがこう言った。
”If you have a choice between being right and being kind, choose kind.”
(正しくあるか親切であるか、どちらか選ぶときは、親切を選べ)
自分の大切なものを大切にすることは、その対象だけでなく、自分自身に対しても親切であるという行為なのかもしれない。
そして、私がこんなダラダラ書いてみたことは、さらっとガンジーが残してる。
”live as if you were to die tomorrow learn as if you were to live forever”
(明日死ぬかのように生きよ。 永遠に生きるかのように学べ。)
そう、これが言いたかったんだ。
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